”「Bioshock Infinite」Bioshockの遺伝子とは”と”「Bioshock Infinite」全てはプレイヤーをもてなすために”にてBioshockらしさとBioshockとして進化した先の話をしました。一人称視点によりプレイヤーの感情に直接訴えかける手法、そしてエリザベスという存在によりプレイヤーと主人公はやはり心を一つにしていく事を書いてきましたがまだ足りない。結局プレイした後我々プレイヤーの中に何が残るのか。ここからはゲームのラストについて思ったことを書いていこうと思います。
もう完全にネタバレですのでここまで未プレイの方は絶対に読んではいけません。
Bioshock InfiniteはBioshock 1と違い最初から一貫して悪役が判明しています。ロード中のTipsの欄には「金持ちだろうが貧乏人だろうが嘘つきは嘘つきだ」などブッカーの考えとして明確に敵を示しています。が、少なくとも私には一度のプレイではこのゲームのストーリーの核心に迫ることは出来なかったように思います。何故カムストックはコロンビアを作りエリザベスを幽閉しブッカーを偽りの羊飼いとして排除しようとしたのか、明確には理解できませんでした。
このへんはBioshock 1同様、様々な人々の思考の大きな奔流を一人称視点で見て回ればおおよそ理解できるのはこの程度だろうと思います。理解力が低すぎるのはさておきです。
ゲームはブッカーとエリザベス、そしてカムストックとその他の人々の物語は一貫してブッカーの物語として進み、主人公、そしてカムストックの死で幕を閉じます。一旦幕を閉じます。
そして、収束した物語はエンディング後エピローグという形でもう一度だけ開かれます。ストーリーとしてはエンディングで完全に、綺麗に収束しきっています。なにせ主人公は死にカムストックも死ぬのですから。この物語の仕掛けを見てももう完全におしまいのはず、にもかかわらずもうワンカット入ります。
最後のシーンでも主役であるブッカーは声を発し尚主人公であることを主張します。物音がするドアを開けベビーベッドに駆け寄り中を見ようとしたその瞬間に今度こそゲームは終わります。
言ってしまえば「後はプレイヤーが想像してね」ということなのですが、深読み好きの私にはそこにはもう一つ大きな意味があるのでは無いかと思います。前述の通りあのエピローグではブッカーも赤ん坊も絶対に存在し得ない状況のはずです。じゃああれは誰か。
いや、ブッカーなんですけどね。
エピローグのブッカーと赤ん坊は一体何者だったのかは物語では当然明確に描かれません。プレイヤーへの最後のご褒美、今までブッカーの物語として綿密緻密に計算され尽くして描かれたBioshock Infiniteはここでようやくプレイヤーに託されます。どんな可能性の扉も開かれる故に3ではなくInfinite、私にはそう思えてなりません。
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